ショッピングカート
 砂上のエピタフ 
2017年11月 / 10月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫12月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:--  |  スポンサー広告  |  EDIT  |  Top↑

2012.12.02 (Sun)

【Thema songs】 ワールドエンド 解説コラム

第5トラック、『ワールドエンド』の解説コラムです。

今回の更新はとっても暗くて、とっても重いよ!

【More・・・】

<解説コラム>

 アルバムの中盤あたりで現れる核心的な歌。
 
 ワールドエンドとは、つまり『世界の終わり』の意であり、その終わりを見渡すための『世界の最果て』の意でもあります。でも、地球は丸いし、時間は瞬間瞬間だから、いつどこであっても私が在るここは終端(エンド)であるとも言えるのでしょう。
 
 周囲への無関心(アナーキー)を装っていても、いざ直面すると、どうしようもなさばかり感じたりして、何もかもが嫌になったりします。そんな灰色のもやもやの気分の中に現れる、やり場のない激しさを歌詞にしたものです。

 つまり、馬鹿馬鹿しいし全部終わってしまえ、と思うわけです。同じ終わるのであれば、世界全部が終わってしまうのも、自殺するのも等価にも思えます。でも、自殺だと少し違和感があるんですよね。私が憎いのは、世界のあれやこれやなんです。正しくないのに正しいように振舞おうとする、あの世界の雄大すぎる循環やら新陳代謝やら恒常性(ホメオスタシス)がものすごく気持ち悪いのです。だから煮え切らなくて、正しくないものには然るべき罰がくだってほしいのです。私にはそれを見届けたいようなほの暗い関心があります。自殺すれば、確かに全部ぐにゃりと終わってくれるのですが、世界は気持ち悪いそのままで続いてしまうので、個人的にはとても面白くない。世界が廃墟になって、その残骸をああやっぱりこうなっちゃったか、と感慨深く見渡していたいのです。でも、世界はとっても丈夫です。だから、これはただの力のない嘆きでしかありません。やり場のない激しさなのです。

 そんな憤懣やるかたなさを感じるより、自分の生活に楽しみを見出すほうがよほど生産的でしょう。受け入れなくても、世界は世界で存在する。だから、世界と折り合いをつけて、まっとうに暮らすのが幸せの早道です。でも、ふと考え出すと、こんな後ろ暗い静かな憤りも止まりません。だから、こんなところで言葉にして、私の激しさを客観的に見れるように閉じ込めておくのです。


Near Song:『ロストイノセント』石川智晶
”愛と言う名で塗りつぶされる
 嘘で色づく世界を
 この手でめちゃくちゃにしたいよ
 ここから抜け出すこともできない ah~”

『ぼくらの』超好き。愛してる。
スポンサーサイト
20:00  |  Thema songs  |  TB(0)  |  CM(2)  |  EDIT  |  Top↑

Comment

●火の鳥の生き血が飲みたい

「アナーキー」から順番に読んでいくうちに、ちょっと泣きそうになってきた・・・。

廃墟となった世界で感慨に浸るということを、何度思い描いたかわかりません。物凄い共感。
「火の鳥」など仄暗いSFなどを読んでいると、イイ感じに終末が描かれていたりすることが多くて、何とも言えない心地良さがあります・・。

自分が死ぬのは世界が終わるのと同じように思えますし、このまま死ぬくらいなら世界が終わってしまえばいいと思うときがあります。
どんなに昂揚していても、次の日には気分が際限なく沈んで、負のスパイラルが止まらないことが、けっこう頻繁に起こるのです。(睡眠を挟んで起きたときに気分が沈むことが多いので、眠るのが恐い毎日です)

こういった感覚を後で思い起こして創作に利用していることを考えると、また複雑な気分になってきます。
決して肯定できない嫌なことでも、創作のエッセンスとなってしまうあたりが、何というか、言いようのない苛立ちに繋がるのです・・・。
その苛立ち自体が、また創作に利用できるというのも因果なもので、考えていくと混乱してきました。
これに関しては自分の中で考えがまとまりきってないのだろうと思います。まとまるようなものではないのかもしれませんが。
アッキー |  2012年12月06日(木) 04:03 |  URL |  【コメント編集】

●火の鳥たんとチュッチュしたいお ※焼き尽くされます

 アッキーさんの小説の後書きとか雑記を、いつもファッキン面白いなぁと思って見ています(※悦んでいます。褒めています)。
 なんというか、アッキーさんと私は同じ釜の飯(≒心の闇)を食ってる親近感が湧くのです。同じようなものを好んでますし、後ろ暗い愉しみも分かっていらっしゃる。しかし、最後の結論や表面的な態度だけは、私たちは違っている感じがします。それは別に悪いことでもなく、良いことでもなく、ただ違うだけです。その違いをうまく言葉にできないのですが、考え始めると結構興味深いなぁと思います。

(試論として書いてみれば、ナルチシズム<自己満足>の方向性が違うのかなと思います。私は暗いものを背負いながらもまともに立ち直ろうとする方向を賞賛するけども、アッキーさんは暗いものを背負いつつ歪んだなりのやり方を突き通す方向性を賛美している感じがします)

 脱線から離れて、コメント返信に戻ります。

 終末を見てると、なんだかホッとしますよね。納まるべきところはこれだ!みたいな。漫画のデビルマンのラストとか美しすぎてため息しか出ません。
 私もいつも聖なる気持ちを保ちたいのですが、てんでダメです。基本的にいつも120の発想があれば、108くらいが暗くて、それを高速演算してようやく正常ぶってるような生活です。コントロールうまくできないものですよねぇorz

 例えが真摯な悩みに対して不適切なのを分かった上で、その悩みの悪循環をざっくり例えます。それは『いけない……、でも感じちゃう/// ビクン……ビクンッ……』と同じ現象です>< 本当は快楽を感じてはいけない邪なはずのものに悦楽を感じて高揚してしまう、一種の背徳感でございます。しかし、その背徳感はさらに心のMをくすぐり、感じたことでさらに背徳感が増し、その背徳感はさらに(以下無限ループ)。 ああ僕らは自分の排泄物で永遠に楽しく暮らせるのか、素晴らしいなぁ! ……といつもなればいいのですが、そうやって開き直って楽しめるのは気分のいいときだけです。大抵は抜け出せない負のループの無間地獄さながらの苦しみの方が長いものです……。

 でも、そういう悩みを抱えている人が、同じ人を見つけて安心できるために、私たちが発信することが必要な気もします。同じ人が見つけられたなら、少し気分が落ち着きます。そして再び自分の闇に対して、ひと呼吸を置いてから自分なりのやり方で向き合えるような気がするのです。

 悩みはまとまらない混沌こそが、心の源泉だと思います。村山由佳さんの言ですが、心の中に異世界を抱いてるからこそ作家は書けるんですよ。そのもやもやを暗中模索して、何か言葉に託して誰かの琴線を震わすことがうちらのライフワークだと思うのですよ。
村瀬薫 |  2012年12月07日(金) 01:17 |  URL |  【コメント編集】

コメントを投稿する


 管理者だけに表示  (非公開コメント投稿可能)

▲PageTop

Trackback

この記事のトラックバックURL

→http://fiorism.blog53.fc2.com/tb.php/172-4ffc88ad

この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック

▲PageTop

 | BLOGTOP | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。